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少子時代の“健全”であることの難しさ

読書の秋です。って、単に私が妊婦体で体が重くて動かないせいなのかもしれませんが、ここ数日猛烈に読書三昧しています。で、宮部みゆきにハマっています。

実は私は今まで、彼女の作品を読んだことがありませんでした。何故かと言えば、彼女の作品はすべからく人気があり、図書館ではいつも『貸し出し中』だったから。しかし、これもすべて産休のおかげナリ、平日の昼間に図書館へ行くことが出来る今、毎日の様にチェックしていると面白いほど「貸し出し可能」棚に収まっている人気の新刊に出会えるのです!何と贅沢な毎日。ありがたや。

そんな訳で、世の中に遅ればせながら、今日までに彼女の著作『模倣犯』『火車』『R.P.G.』を読み終えました。amazon.co.jpなどの一般読者による批評欄を見ていると様々な評価があって面白いなあと思うのですが、私個人がこの3冊に通じて特に感じたことは、「現代において“健全”で生きていくことの難しさ」でした。

ごく簡単に言ってしまいますが、私が『模倣犯』から強く受け取ったテーマは「被害者側の痛み」、『火車』からは「永遠に終らない“自分探し”と“幸せ探し”」、『R.P.G.』からは「私の居場所」。いずれの作品からも滲んで来るのは、現代社会において生きる人間の“現実感”の希薄さ。自分が生きているのか死んでいるのかただ漂っているのか、それさえも分からなくなっている現代人が、図らずも生身の人間として感じてしまった「痛み」に混乱する有様が描かれている様に思える。

以前このblogで取り上げた韓流現象と拉致問題や真魚さんのblog記事「虫愛づる姫君」の議論でも主張仕切れなかったこと…つまり、私が昨今の多くの日本人に感じる「希薄さ」を、宮部みゆき氏はとても的確に映し出してくれている。だからどうするべきだ、と言う教育論的提言には今は結びつかないのだけれど。


例えば私は、上記の真魚さんのblogにおけるコメントで、昨今のヨン様ブームに踊る人々を見て、以下のように表現しました:

私は所謂他人を「追っかけ」出来る人と言うのはイノセントな人たちだなあ、と羨ましくなる一方で、その実、自分の思いを一方的に託す対象を探すのは、きっと永遠に自己が満たされない状態なのだろうな、とちょっと寂しくもなります。

こう書いてしまうと、「女性の生き方とは何ぞや」みたいな問題になってしまって誤解を与えやすいのが常。実際、robitaさんはこのコメントについて以下の様に返信してくださっています:

この中年女性たちと私とは同じなんです。 彼女たちは、きっと、私と同じように「夫や子どもを通しての自分」という立場に甘んじていて、家庭的にある程度満足している人たちではないのかな、と思います。そのイノセントぶりはまるで私です。

興味の対象が人それぞれ違うというだけなのだと思いますよ。

「自分探し」であがいている女性というのは、もっと真剣で、深刻で、どろどろしているのではないかとこのごろ思うようになったので、【「自己実現」を追求する女性のもがきを思えば、シンプル且つイノセントでいることのなんと幸せなことよ】という考えに至りました。


私はこのrobitaさんのお言葉についてずっと考え続けているのですが、人間って本来誰でも、毎日毎日「真剣で、深刻で、どろどろしている」ものなのではないか、と。でも、昨今の日本の老いも若きも、余りにこの事実から目を逸らしすぎているのではないか、と。人間は、弱い生き物だから、とか何とか理由をつけつつ、「頑張らない勇気」とか何とか言っちゃって。社会全体で、ごまかしている。

そのごまかしの根源は原因は何処からやってきているのか私にははっきり分からない。けれども、人に殴られたら「痛い」、他人に軽んじられれば「頭にくる」、ベストを尽くしたのに良い結果が出せなければ「悔しい」、自分の持たざるものを持つ人を見たら「妬ましい」。これらすべては社会で生きている私たち人間が持つ、ごく“健全な”感情なのではないか。この、自分から発生するごく“健全な”感情を、他人に危害を加えない範囲内で表現すること、これまた人間としてごくごく“健全”な行動であると私は思う。そして、その「表現」行動に対して他人から反応が起こってくる…これまたごくごく“健全な”人間関係の姿ではないか。

けれど、昨今の日本社会、複雑になり過ぎたのか頭でっかちになり過ぎちゃったのか何なのか、取りあえず自分だけは”スマート”で“美しく”あろうとする、いや、そうであると思い込もうとしている。何より、そうして「スマート」然して繕っている間は、他人から「ど真ん中」への反応が帰って来ないだろうと踏んでいる。それゆえ、何となく自分を守れた様な、平和な様な気になっている。でもそれって実は、メガネをはずして自分の姿を鏡に映し満足しようとしていることなのではないか。メガネをきちんとかけている人からは、自分の全てが見られているのにも関わらず。自分自身も、メガネ外していることをちゃんと知っているにも関わらず。

つまり私に言わせると宮部みゆき氏の作品は、私たちに授けられた「メガネ」なんである。彼女自身が常日頃このメガネをかけて日本社会を見つめて生活しているのかどうかは知らないけれど、はっきり断言できることは、この現代ニッポンにおいて、常にこのようなメガネを外さずに生きていくと言うのはとても厳しくて辛い事なんだろうな、と言うこと。

結局、以前に書いた記事:少子化と硬派の孤独の結論と同じ様な事を言ってしまう私なのだけれど、もしいるのならば、「外せぬメガネに戸惑う若き人たち」にどうしても伝えたい、世の中の風潮に逆らうことになるけれど、目先の何かに熱中することで空虚感を無かったことにしようとするのではなく、とことん自分の醜悪さや自分のダメダメさと向き合おうじゃないか、と。そうしたらきっと自らその為の行動を起こそうとするはずである、と。行動を起こし時に訳も分からずもがいている内に、きっと、「空虚感」なんてなくなるはず。その時こそ、自分の事を自ら「負け犬」と皮肉っても壊れない自己を確立できる様に、なる。

そうして願わくば、既に若くは無いオトナの私たち、あっちへフラフラこっちへフラフラ~フンワリフワリ、何となくクリスタル~(←古い)みたいな姿で子供たちにオトナを垣間見せるのはもう止めよう。言ってることが理不尽だっていいのだ、やってることが古臭くて頑固なジジ/ババだっていいのだ!堂々と剥き出しの自分たちを晒して子供たちから評価されようではないか。

私は、自分が正しいと証明する為に他人に「キミは間違っている」と説いたり、本質とかけ離れた知識の羅列によって相手を黙らせる手法を用いる輩は評価しない(うんうん、よく勉強したんだねえ、とは思うけど)。むしろ、「わしが正しいのじゃ。そうやってウン10年生きて来たんじゃからの!」と、自分の考えをごくストレートに、シンプルにぶつけてくれる人こそが、子供たちにとって財産なのだと思っています。だって、子供たちはその“内容”の正しさを忖度して成長するのではなくて、その鋭敏な“感受性”を駆使して、オトナたちから社会の生き方・泳ぎ方を学んでいくものなんだから。


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コメント

今日のkakuさんの文章は秀逸!

「何が正しいか」(何が良き道か)わからなくなっている現代人への根源的な示唆だと私は思います。

kakuさんの文章一つ々に答えたいのはやまやまだけれど、長くなるので私自身の体験などをひとつふたつ書かせてください。

私の父はいわゆる明治生まれの家父長的な人でわからずやでした。話が通じにくく、民主主義教育を受けた子ども達とよくぶつかりました。それこそkakuさんの仰る、「わしが正しいのじゃ。そうやってウン10年生きて来たんじゃからの!」というタイプの頑固者でした。
しかし、そういう人とぶつかり合うことこそが次の世代にはぜひとも必要だと思うようになったのはこちらもずいぶん大人になってしまってからです。
もうひとつ、
私たち夫婦はほとんど喧嘩をしません。特に子ども達の前ではしません。しかし、一度だけ子ども達の前でしたことがあります。あることをきっかけに、わがままな主人への不満を泣きながら訴えたことがありました。そのあと二人で粗大ゴミ(ベッド)を階下におろしに行ったのですが、部屋に帰ってくると、当時小学校4年生ぐらいだった長男が妹に末っ子の面倒を見させながら自分は粗大ゴミの取り除かれた場所を一所懸命掃除していたのです。普段、気を利かすとか掃除などしたことのない子なので、たぶん、親の諍いを見て仰天し、自分なりに何か役に立つことをせねば、と思い立ったのでしょう。両親の喧嘩が子どもを成長させたと言えます。

私たちは今でも夫婦喧嘩をしません。主人の理不尽な言動にムッと来ながらも言葉を呑みこむ時、あの長男の行動を思い出すことがあります。

このごろ、仲良し親子、仲良し家族が増えている、という報道を聞きました。親がものわかりが良くなり、子どものほうも、「養ってもらっているのに反抗などできるか」という「賢い子」が増えたため、などということらしいです。

うちの家族は、末っ子があの年代特有の不機嫌さを備えてはいるものの、おおむね、家族関係は良好です。
そのせいでしょうか。たくましさや覇気が足りない、と私は感じています。

「両親が仲が悪いと子どもへの精神的影響が危惧される」、とか、「独裁的な父親は言語道断、家族も民主的に話し合いを」、とかいうことは正しいが正しくない、というどうしたらいいのかわからない状況に追い込まれているのが現代人なんでしょう。

ところで、私はそういう状況を悩んでいるかというと全くそんなことはなく、ま、なるようになるさ、みたいな、やっぱりお決まりのみもふたもないことを言ってしまいます。

これが「年を取る」ということかもしれません。いや、昔からこうだったことを考えれば、あの理不尽な父親が私を哲学者(笑うな)にしてくれたのかもしれませんね。


投稿: robita | 2004/10/27 11:35

kakuさーん、さっきTB送ったよお。
robitaさんにも送りました。
あー書いていて徹夜してしまった。明日、会社行けるのかしら、わたし。(^_^;)
最近、kakuさん、静かだなと思っていたら。とーとつに送ってきましたね。でも、ありがとうございます。
うー、眠い。少し寝ます。

投稿: 真魚 | 2004/10/28 05:14

robitaさん、真魚さん、有難ーいコメントに心より感謝致しますm(__)m

真魚さんのTB記事「美は乱調にあり」へのコメントにも書かせて頂いたのですが、「健全」と言う言葉は誤解を生みやすい言葉なのでちょっと怖かった部分もあります。「健全」とは「健康」と「不健康」をも内包する、と言う点が伝わり難いかな、と。ヒトラー・ユーゲントとはちょうよー、と。

で、この「健全」であること、robitaさん&真魚さんの仰る「美」であることの為に必要なのは、究極的には「愛」…これしかないだろう、と私は思っています。

以前、このくさーい台詞を吐き、温暖化する地球を冷ますのに一役買っているわ…なあんてお話したことありましたね、robitaさん!そのうち、愛について書けたらいいな、なんて思いながら心の中で文章に熟成されるのを待っている今のワタシであります。


投稿: kaku | 2004/10/28 19:48

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 アメリカといっても、僕が知っているのはサンフランシスコぐらいなのであるが、お店 [続きを読む]

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